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三渓園 [横浜]

昨日は、高校時代の友人たち6名で
横浜の三渓園の散策に出かけてきた。
 
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この庭園は敷地53000坪あり、
明治初期に廃仏毀釈の風潮で晒されていた、
京都や奈良の建物が沢山この地に移築されている。
 
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全て、明治時代に生糸貿易で財をなした原三渓が
なしたものである。
 
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徳川吉宗が幼少時に過ごした建物、
春日野局の茶室、織田有楽斎の茶室、秀吉の母親が病気の際に
こもっていた建物などなど、全て本物が並んでいる。

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共通テーマ:日記・雑感

三渓園散策ーその2 [横浜]

(前回の続き)
 
「三渓園」の入り口を入り、
大池の手前の藤棚の近くまで来ると、
数人の男性ガイドさん達が屯(たむろ)していました。
 
彼らは皆、
首に緑色の紐を掛けて
入館カードをぶら下げています。
 
Bさんが彼らに何か用事があるらしく、
私はそこで暫らく待たされました。
 
後で用事の内容を聞くと、
全国的なネット組織の「メロウ倶楽部」の集まりが
近々「三渓園」であり、
Bさん1人では案内しきれないので、
彼等に応援を依頼したとの事でした。
 
 
最初に見学したのは「臨春閣」です。
 
 
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紀州徳川家初代の頼宣が、
1649年に和歌山の紀ノ川沿いに建てた別荘です。
 
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頼宣の奥方は加藤清正の娘で、
朝鮮出兵の際の戦利品であろう
灯篭や手水もありました。
 
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Bさんの話だと、「おそらく、8代将軍吉宗(暴れん坊将軍)も
子供の頃この建物で遊んでいたかも知れない」との事でした。
 
 
 
↓ 次はこれです。
「旧天瑞寺寿塔覆堂」
 
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豊臣秀吉の実母の大政所が、
大病をした時に建てた覆堂。
 
扉に彫られている
天女の足が鳥になっています。
 
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↓「身代り灯篭」 
 
秀吉と縁が深かった千利休が、暴漢に襲われた時、
近くにあった灯篭に身をかわして助かったと言う灯篭。
  
形が蝋燭に似ているので、確か「蝋燭灯篭」(ろうそくとうろう)
と言われていると説明を受けました。
 
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↓合掌造
岐阜県白川郷にあった、
江戸時代の庄屋の家を移築したものです。
 
 
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横から見るとかなり大きな家で、
2階に上がると更にその大きさが分かりました。
 
 
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 ↓ 槍(?)と鉄砲の様です。
 
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↓ 屋根の三角の形の中にある火灯窓(かとうまど)。
  ここに住む庄屋が、西本願寺に沢山の寄付をした結果 
   火灯窓を掲げる事を許されたようです。
   火灯窓は花頭窓とも書きます。
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↑ここをBさんに案内をしてもらっている時、
 Bさんと私の家は、きしくも、同じ宗派で、
 しかも同じ西に属している事が分かりました。 
 
 
↓ 最後に、
  山の上にある3重の塔に登ってみました。
 
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↓こんな小高い山の上に建てられた3重の塔は
  関東大震災でも倒れなかったそうです。
 しかも、真ん中に芯となる柱がない造りだとか。
 
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以上「三渓園」の一部を紹介しましたが、
園内に17棟の古建築物がある内
10棟が重要文化財です。
 
ここ「三渓園」では、
春3月には「観梅会」、4月には「観桜の夕べ」
6月には「蛍の夕べ」、10月には「観月会」ほか
1年中催しが開催されている様です。
 
本日の私のコースは、午前11時に園内に入り
2時間散策し、その後少し離れた「中華街」に移動して
2時間ほどかけて、中華とお酒を堪能しました。
 
 
今回、Sさんには良いコースを紹介して頂きました。
 
 
↓ 「三渓園」のHPです。
一度訪れる価値ありの場所です。
 
次回は、高校の同級生達を
一度ここに案内してみようと思います。
   
 
 
  ・・・・・・・・・・・・・・
 
 
  
 (おまけのひと言)
 
 園内でBさんの説明を受けて歩いている時
 

ふと後を見ると、

いつの間にか5~6人の人達が、

私と同じように、

説明を聞きながら

ついて来ていました。

 

 

実は、これだけ沢山の建物を
京都や奈良、鎌倉から
横浜に移築する事が出来たのは
ある時代背景があったからです。
 
 
それは明治3年から4年にかけて起きた
「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」です。
 
明治政府主導の、
西洋の文明を取り入れるという
運動が行われた結果、
全国のお寺が半減しました。
 
 
そこで原三渓は移築を決意した様です。
しかも、建物だけでなく、
その周囲にあった塵やゴミまでも
一緒に持ってきた様です。
 
 
関西から横浜までは
船で移動させたのでしょうが、
その後の陸地での移動は
さぞ大変だったのでは
ないかと想像します。

横浜「三渓園」の散策 [横浜]

昨日は、横浜まで出かけ、
「三渓園」を散策してきました。
 
以前勤めていた会社の総務部長が、
ボランティアで園内のガイドをしているのです。
 
私が横浜を訪れるのは8年ぶりです。
 
集合時刻は午前10時。
横浜そごう前です。
 
今回お世話になるBさんには、
私が会社へ入社する際は
いろいろとお世話になりました。
 
「三渓園」は電車での交通の便が悪く、
根岸線の根岸駅からバスで10分です。
 
しかし、私が横浜が不慣れなため、
横浜駅からバスに乗りましたので、
本牧の「三渓園」まで30分かかりました。
 
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Bさんとは5年ぶりの再会で、
バスの中から既に、
通過する街中のガイドが始まりました。
 
話は、戦争時にまで及び、
終戦時彼は小学6年生だったそうです。
 
厚木から徒歩で横浜まで
行進する米兵の話になりましたが、
「行進する米兵は、
皆ガムをクチャクチャさせながら歩いていた」そうで、
それを見たB少年は
「何て、だらしのない兵隊たちだ」と思ったそうです。
 
恐らく彼は軍国少年だったのでしょう。
 
また、終戦は8月の暑い頃で、
兵隊たちは喉が渇き、
沿道の家から、
井戸の水を貰って飲んだそうです。
 
マッカーサーが飲んだ井戸は、
「マッカーサーの井戸」として、
今でも残されているそうです。
 
 
初めて訪れるので
「三渓園は山の中にあるのだろう」と想像していましたが、
意外にも住宅街の中にありました。
 
 
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休日には、観光バスが何台も来ているそうで、
最近は案内盤に、
中国語とハングル文字も加えたそうです。
 
また、東欧やロシヤ人も見学に来る様です。
 
私達が訪れた時、
入り口近くのタクシー乗り場には
1台の車が停車していました。
 
昨日は平日でしたので、
訪問者は少ないと言う話でしたが、
2時間後に、
このタクシーに乗るとは
考えてもおりませんでした。
 
 
ここで国指定名勝「三渓園」の説明をしておきます。
 
この庭園は、生糸貿易で財をなした、
横浜の実業家「原三渓(本名:富太郎)」の元邸宅です。
 
彼は、京都や鎌倉から
歴史的に価値のある建築物を移築し、
明治39年(1906年)一般に公開しました。
 
 
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園内は175000平方メートル(53000坪)あり、
私達が園内を見終わるには約2時間もかかりました。
 
 
Bさんの案内で、園内を見学する時には、
織田信長、豊臣秀吉、加藤清正、徳川家康などの
歴史上の人物の名前が次々に飛び出してきました。
 
 
ここの園内をガイドするボランティアさんは
昨年いっきに増え、計100名を越えたので、
曜日別に案内をしているようです。
 
 
( 続 く )
 
 
 
 ・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 (おまけのひと言)
 
 
昨日は久しぶりに
 
気分転換が出来ました。
 
 
私は、昨日から
夏休みを取っています。
 
  
5連休のこの間の
スケジュールは、
 
昨日の横浜行き、
庭木の剪定、
散髪、
蛍光灯の購入、
社会保険庁訪問、
先輩との飲み
位かな。
  
旅行は2週間後に
する予定です。

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